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博士の研究と生活

ポストモダンの社会学のために

 現在、博士論文を書籍化するために補論として書いているのが吉本隆明鶴見俊輔の批評の方法とポストモダンについてである。吉本は独特のタームで最初は何が書いてあるのかよくわからなかったが、吉本のマスカルチャーに対する取り組みはずっと気になっていた。

 吉本は、埴谷雄高との論争がある。これは吉本が雑誌「anan」1984年9月21日号にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場したことに、埴谷が文芸誌「海燕」において批判を行ったものであるが、ここで、埴谷は、吉本が「コム・デ・ギャルソン」という「高度資本主義」における「ぶったくり商品」を着ていることを批判していた。そして吉本は、この論争に応えていて、吉本は、むしろ「先進資本主義国日本」において賃労働をしている女子が「こんなファッション便覧に眼くばりをするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、と読まれるべきです。」と書く。これは、一方でわかるところではあるけど、同時期には田中康夫『なんとなく、クリスタル』が文壇を賑わせて江藤淳によっても評価されており、この小説から分かることは、能動的で表層的な消費行動というものも出現していたということであり、そこに評価を見出す議論が必要となろう*1。ちなみに、柄谷行人は80年代の文化を「後期資本主義」というフレドリック・ジェイムソンとも共通するタームによって記述し、90年代に近代文学は終わったと述べている。その分水嶺中上健次に見ているのだが、私は村上龍の活動も鍵になるのではないかと考えている。

 詳しくは、著書の中で書いているが、鶴見もまるでマイク・フェザーストンのポストモダン社会学の記述のように、文化の表層から大衆を考察していて、それでも大衆への希望は失っていなかったのだ。ここに鶴見と吉本の差異があるのではないかと考えている。鶴見は生涯において一度も大衆であったことはなく、大衆は構成されたものであったのだが、しかし彼の大衆への接近方法によってそれは構成されており、そこが吉本との発言の差として現れているだろう。私の研究の一つは、鶴見の大衆文化への接近方法の考察でもあったのである。

粟谷佳司(社会学・文化研究)

*1:ここに村上龍を加えてもいいかもしれない。村上の消費社会を前提とした作家活動や評論活動は知られるところであろう。そして、吉本は村上の『トパーズ』における無意味な反復について言及していて、これは非常に興味深いところではある。